今まで何回「殺す」って使った?
不穏なタイトルではじまります。
みなさんは「殺す」という言葉を今までに何回使いましたか?
文章でも、口にした言葉でも、全てカウント、できますか?
一度も使ったことはない、という人は、なかなかいないと思います。
もし一度も使っていない人がいらっしゃるなら、それは相当にお育ちが良いか、もしくは怒りの感情を持ち合わせていないか、なんにせよ珍しいお方だと思います(良い意味で)。
現代では、冗談、じゃれ合いの範囲内に、「殺す」という言葉はごく自然に入っています。
仲がいい相手に「ふざけるなよ」という意味合いで「おまえ殺すぞ」と言う人もいますし、憎い相手に対して「殺してえ」とぼやく人も、最近は「めんどくさい仕事を済ませた」意味で「仕事殺した」と表現する人なんかもいますね。
私は、もう何回「殺す」という言葉を使ったか覚えていません。(こう書くと、厨二病っぽさがすごいですね)
それは、じゃれ合いの延長線の「お前殺すぞふざけんなよ(笑)」であったり、めんどくさいタスクに対しての「殺してえ〜」という暴力的表現であったり、本来の意味での「殺す」とは意味合いが異なるものがほとんどです。
ですが、本来の意味合いで、言葉を使ってしまったことも、あります。もちろん、実行には移していません。じゃないとブログなんて書いてられませんからね。
受け継がれる暴力
なぜこんな話を突然したかといいますと、「泥水ってわりと物騒なこと言うよね」と、同居人に言われたためです。
そうかな?そんなに物騒な発言多いかな?と思って改めて振り返ると、なるほど確かに、私は口が悪い。そのことに気づきました。
「しかも、結構実感がこもってるよね」とも言われました。つまり、マジのトーンで物騒な発言をしているということです。これも、言われて初めて、「確かにそうかもしれない」と思いました。
何故こんな口が悪いんだ?と考えて、思い当たることがありました。
それは、父方の祖父の影響です。
以前書いたnoteでも少し触れていますが、父方の祖父はわりと暴力的な言葉遣いが目立つ人です。電話口で「殺すからな」と言われたことがありますし、酔うと「バカヤロー」などの暴言も増えます。そして、それは私の父にも受け継がれています。
父は、私に対して暴力的な態度をとることはほとんどないですが、「お前が人を殺したら俺がお前を殺すからな」という道徳的教育(?)や、「学校でいじめられたら俺がそいつを殺してやるから心配するな」など、なかなか積極的に殺しに行く発想を持っているようでした。もちろん、父が人を本気で殺すことはないだろうと思っていますが。
しかし、「究極的な対抗手段は相手を殺すことである」という考えが、私の父方の親戚、少なくとも祖父や父親には根付いているような気がしてなりません。
そして、例外なく、私もまた、その考えを受け継いでいるように思います。
私の場合、背が低く、体格もあまり良くなく、性別も女で、眼鏡をかけていて、世間一般的に言うと「弱っちい」部類の人間に見えるのだと思います。
実際、平均的身長の成人男性と取っ組み合えば、一瞬でマウントを取られて終わりでしょう。
ですが、私は、過激な発想、「究極的な対抗手段は相手を殺すことである」という思想を受け継いでしまった人間です。
なので、他人に屈するような目に合わされたり、ナメられた態度をとられるたび、「そっちがその気なら私はお前を殺す、全てを失ってでも必ず殺す」と心の中で念じていました。こう書くと、我ながら物騒だなと感じます。
これが、おそらく私の、「マジなトーンで物騒な言葉を使う」原因なんだろうなと思います。あーあー。
実際のところ、人を殺すというのは罪です。その人を大事にする全てのつながりを壊し、悲しませることになります。そして、私にも大事にしたいつながりがあります。私が他人を殺せば、きっと私を大事に思ってくれている人に迷惑をかけるでしょう。
それでも、私は「究極的に追い詰められたら殺すぞ」というスタンスをやめることができません。
やめる気がないのか、もうやめられなくなってしまっているのか、自分でもわかりません。正直、非常に疲れます。自分でも何と戦っているのかわからないときがあります。
思想は受け継がれるというのは絶対ではないと思っていますが、20数年で刷り込まれたものは簡単には変えられないのかもしれませんね。
とはいえ、人を他意なく傷つけるような真似はしたくないので、自分の中の過激さは、うまくコントロールできるようになりたいものです。
最近ちょっと精神がアレな、泥水でした。
ほんとにどうでもいい補足:
「殺す」といえば、西澤保彦先生の『殺す』という小説、タイトルが直球で好きです。中身も最高。改題前は「猟死の果て」だったみたいですが、この方がしっくりきます。
「怪物」の定義 〜理解できない存在の魅力〜
今回の記事はちょっとエグい要素が含まれます。
グロ描写などがお嫌いな方は読むのをお控えください。
私は、「怪物」が好きです。
ここでは、単にクリーチャー的な意味合い、いわゆるゾンビ・狼男・ドラキュラなどではなく、「自分と同じ”人間”だけれど思考が理解できない存在」という意味での「怪物」を指しています。
(クリーチャー系の怪物は大体”萌え”です。好きですが、好きの種類が異なります)
同じ人間でありながら、思考や行動が理解できない存在。
例を挙げると、
・『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士
・『ジョジョの奇妙な冒険 第四部』の吉良吉影
・『ムカデ人間』のヨーゼフ・ハイター博士
などが、私のいう「怪物」に該当します。
レクター博士は人間の肉を好んで食べ、吉良吉影は美しい女性の手に執着して女性を殺しては手だけを持ち歩き、ハイター博士は人間の口と肛門をつなげてムカデ人間を作ることを試みます。
いずれも、現実的には考えられない、一般的には受け入れがたい思考と言えると思います。
ところで、最近、私は『ハンニバル・ライジング』を観ました。
例によって例のごとくU-NEXTです。観たいやつ結構あるのありがてえ〜!
『ハンニバル・ライジング』は、レクター博士の出生について描いたもので、「溺愛していた妹を目の前で殺され食べられた(また、自身も妹を知らずに食べてしまっていた)」ことが、彼をカニバリズムに目覚めさせた、という内容でした。
私は、それを観て、ひどくがっかりしました。
映画が不出来だったというわけではありません。むしろ、映画としては良作で、テンポも残酷な殺しの演出も素晴らしいものでした。
私ががっかりしたのは、「レクター博士という怪物が生まれた理由がわかってしまい、彼も結局のところ、もともとは普通の人間であった」ことに気付かされたためです。
(ただ、ハンニバルシリーズは『羊たちの沈黙』『ハンニバル・ライジング』しか観ていないので、他のシリーズを見れば考えが変わる可能性もありますが・・・)
私は、よく「殺人鬼」「マッドサイエンティスト」を描いた映画を好んで観ています。
それは、「怪物」を求めているからです。同じ人間でありながら常軌を逸した思考をし、猟奇的な行為に及ぶキャラクターがメインとなる作品。そうなると、だいたい殺人鬼か、マッドサイエンティストの映画にたどり着きます。
ですが、そういった映画に出てくるキャラクターの全てが、私の求める「怪物」であるとはかぎりません。
これまで観た映画に出て来た「殺人鬼」や「マッドサイエンティスト」には、だいたい共通点があります。
「幼少期に受けた虐待」「幼少期に経験した恐ろしい出来事」「異常な家庭環境」が原因で異常な行動をとる、という点です。
もちろん全部が全部ではないんですが、幼少期の虐待(特に性的な虐待)がきっかけで殺人鬼になるパターンは非常に多く見受けられる気がします。
映画として、「理由なき殺人鬼」「理由なき狂気」というのは、描きにくいのでしょう。確かに、理由なく人を殺すだけの犯人より、何らかの悲しい背景、ヒロイックな理由があって異常な行動に走るキャラクターの方が、魅力的にうつりやすく、観客に感情移入させやすそうです。
ですが、私は、「怪物」が好きなのです。
どんなに恐ろしい行動を起こす「怪物」であっても、「怪物となった理由」がわかるように提示されてしまえば、それはもはや「怪物」ではない。「自分のような一般人にも理解できる人間」だ。
これが、私の持論です。
かといって、じゃあ単純に人殺しが好きな殺人鬼なら良いのか?理由なく初めから狂っていればお前の大好物か?と言われると、それもまたちょっと違う気がします。我ながらめんどくさいんですけども。
私が言いたいのは、「怪物」になった背景を描きすぎないで欲しいということです。
何か過去にあった、と匂わせる描写だけで良いのです。
母親の教育が厳しかった、とか、何度も様々な手術をして魅力に取り憑かれた、とか。
そういうのを、出すんなら本当にサラッと。2、3回観てようやく理解できるくらい、ちゃんと観ていないと気づかないくらいサラッと。もしくは抽象的な感じで、直接的じゃない描写にするとか。
あまりにヒロイックに背景を描かれてしまうと、感情移入してしまって、せっかくの「理解できない人間への恐怖」がなくなってしまうんです。
だから、「怪物」を描くのならば、できるだけ「理解できない存在」のまま描いてほしいのです。
というわけで、私は「怪物」の例として、「ハンニバル・レクター博士」「吉良吉影」「ヨーゼフ・ハイター博士」を挙げました。
『羊たちの沈黙』においてのレクター博士は、まさに「怪物」です。『ハンニバル・ライジング』を観さえしなければ、彼に背景はほぼ存在していません。
吉良吉影もまた、公式で「母親のしつけが厳しかったせい」というのが彼の異常性癖の理由として出ていますが、本編ではそのような描写はありません。ただひたすら、「手が好きなんだからしょうがない」という感じで行動しています。
ヨーゼフ・ハイター博士にいたっては、本当に全く理解できません。彼こそ完成された「怪物」だと思っています。だって、理由が「つなげてみたい」だけなのですから。一応、シャム双生児の分離手術の権威で、だから今度は逆につなげたい、という理由が描かれてはいますが、その理由自体が理解できないので、完璧です。完璧な狂気です。
というわけで、私の「怪物」持論でした。
おすすめの「怪物」映画があったら、是非教えてください。
蛇足:
上記の理由で「怪物」認定しきれてないんですが、
・『ザ・セル』の連続殺人犯「カール・スターガー 」
・『ハロウィン』の殺人鬼、ブギーマンこと「マイケル・マイヤーズ」
・『ヴィー・フォー・ヴェンデッタ』のテロリスト「V」
は、とても好きなキャラクターです。
特に「V」はかなり「怪物」に近いのですが、どちらかというと彼は「理念」なので、今回は例には含めませんでした。
というか、「怪物」じゃなくても「殺人鬼」「マッドサイエンティスト」の時点で、だいぶ好きだよ!!!!!!!!!!!!
今までの話ぜんぶ無に帰した気がしますけど、まあ好きなもんは好きだからしょうがないね。クリーチャーも大好きです。ただしジャパニーズホラーだけは勘弁な。
『NARUTO』が私にくれたもの
どうもどうも。働くのやめたら曜日の感覚が失われてきました。ニチアサだけが私の正気を保ってます。
noteの記事を真面目に書くようになってきたので、こっちのブログはもうちょっと気を抜いて書いてもいいかなーと思い始めました。
気を抜くというか、もうちょっとディープなオタク趣味とか、個人的なこととか、何書くかをいちいち練るのではなく、好きに文章を書いてみることにしようかな、と。
私は、絵を描くのが好きです。
ただ、小さい頃は単純に「おえかきがすき」で、小学生のときもまだ「図工の時間がすき」程度の「好き」でした。つまり、ただ好きなだけで、ものすごくうまくなりたいとか、何かを明確に描きたいとか、そういうものはありませんでした。
しかし、中学校に入ってから、私の「好き」は変化しました。
きっかけは、友人に借りた漫画でした。
小学生までの私は、漫画というと、従兄弟がくれたと思われる名探偵コナン1冊と、図書館にあったブラックジャックくらいしか読んだことがありませんでした。おもしろいな、とは思いつつも、それ以上の感想は出てこなかったです。
私が初めて明確に「興味を持って漫画を読んだ」のは、『NARUTO』でした。
当時、中学生になったばかりの私は『NARUTO』の世界観に没頭し、キャラクターの一挙一動に心を動かされ、敵の死に涙を流し、読み終えると「はやく続きを!」という気持ちになりました。
やがて完全にハマった私は、「この漫画のキャラの絵を、自分で描いてみたい」と思うようになりました。
これは、当時インターネットで見たファンサイトの影響と、絵のうまい友人の影響だと思われます。ネット上には膨大な量のファンアート、それもとびきりにうまくてかっこいい絵がずらりと存在し、絵のうまい友人がスラスラと描いているのを見て、「いいなあ、私も描けたらなあ!」と考えたのです。
そこからはもう、ひたすら描きまくる日々でした。
漫画を買って模写し、絵のうまいひとのサイトで制作過程を学び、友人と絵を交換したり、どこがおかしいか指摘してもらったり、とにかく描いて描いて描きました。
描きはじめた頃は、本当に目のあてられない下手っぷりでした。関節はないし、手が描けないのでうしろに組んでるポーズばっかりになるし、首と肩はおかしいし・・・と挙げだしたらキリがないです。ちょっと頑張って思い出して、昔の自分の絵っぽいものをを現在の絵と一緒に描いてみました。
こう並べてみると、なかなか上達したんじゃないの?と思います。
あくまで当社比ですけども。
今思うと、はじめにハマった漫画が『NARUTO』で良かったな、と思います。
『NARUTO』の絵は、バトル系漫画なだけあって動きが多く、また、作者の岸本先生がデッサンをしっかり学んでいるタイプの漫画家さんなので、端的に言うと「すごく絵がうまい」んですよね。
もちろん他にも画力オバケな漫画家さんはたくさんいるんですが、キャラデザの良さ、矛盾のないパース、構図のかっこよさは、やっぱり岸本先生さすがだなと思います。
はじめに岸本先生の絵を真似したおかげで、私は動きのある絵、難易度の高い俯瞰絵(上からみた図)などに抵抗があまりなくなり、次々と別の漫画や作品の模写をして、絵を練習し続けることができました。
『NARUTO』の次に私の絵に影響を与えたのは『ジョジョの奇妙な冒険』かなと思います。あれはもう、真似とかできる次元じゃないんですが、「常識にとらわれたポーズじゃなくて別にいいんだな」「デザインとかもう好きにしていいんだな」と吹っ切れさせるパワーがあります。おかげさまで吹っ切れました。
あとは高橋留美子先生のデフォルメ力だったり、人外キャラの魅力に取り憑かれたり、画力オバケの村田雄介先生に魅せられたり、いろんな人の絵の影響を受けて、現在の私の絵があります。
今は、「うまくなること」より、「自分の描きたい絵を描けるだけの力をつけること」が目標です。
他人の評価を気にするよりも、自分の求めるものが描けたなら、それが一番幸せだと思っています。
もちろん、褒められると嬉しいので、いろんなところに絵をアップしているんですけども。自己顕示欲がとまらね〜〜〜!!!!褒められてえ〜〜〜〜〜!!!!!
あともちろん絵うまくなる薬とかあったら速攻飲むんですけど。絵うまくなりてえ〜〜〜〜〜!!!!脳みそから直接プリントアウトしてえ〜〜〜〜!!!!
今日も今日とてお絵かきが楽しい。
まるっきりオタクの独り言でした。もうこのブログこんな感じでいいかな。いいか。
映画版『それいけ!アンパンマン』シリーズ 〜他人のために生きること〜
(※ブログ内の画像は全て自分で描いてます)
「何のために生まれて 何をして生きるのか」
「こたえられないなんて そんなのはイヤだ!」
これは、有名な曲の一節です。はい、皆さんご存知アンパンマンです。
散々言われていることだと思うのですが、この『アンパンマンのマーチ』、児童向けとしてはかなり重い言葉が散りばめられています。
上記の一節以外にも、「愛と勇気だけがともだちさ」「時は早く過ぎる 光る星は消える だから君は 行くんだ 微笑んで」・・・わりと挙げだしたらキリないです。
この曲は、アンパンマン、つまり「他人のために生きるヒーロー」の在り方を表していると私は解釈しています。これは、アンパンマンの映画をいくつか観ることで、感じたことです。
なんでまた突然アンパンマンの話をしはじめたかというと、U-NEXTがきっかけです。
せっかく登録したんだし、『チリンの鈴』以外も色々観てみよう、と思って見つけたのが、映画版『それいけ!アンパンマン』シリーズでした。
完全にやなせたかし作品にとりつかれてますね。『チリンの鈴』の罪は重い。
映画『チリンの鈴』〜狼にも羊にもなれなかった獣の行く末〜 - そのうち飽きる
なんとアンパンマンの映画、短編を抜いても30作品近くあります。歴史が長いアニメではありますが、ここまであるとは知りませんでした。
最近私が観たのは『勇気の花がひらくとき』『いのちの星のドーリィ』『ゴミラの星』の3作品ですが、この中から、特に『いのちの星のドーリィ』について重点的に話をしたいと思います。
ストーリーの紹介
アンパンマンたちの住む町は、かつて何もない不毛の土地だった。しかし、そこへ「いのちのほし」が降り注ぎ、緑と水の豊かな場所となった。そこで、「いのちのほし」に感謝するために住人たちは祭をひらくことにし、今年もその準備が行われていた。
祭の日が近づくなか、パトロール中のアンパンマンは、海で漂っていた人形を発見し、パン工場へ持ち帰る。その夜、「いのちのほし」が降りそそぎ、その中のひとつが偶然人形に宿る。人形だった彼女はドーリィと名乗り、初めての命を得てはしゃぎまわり、パン工場の皆はドーリィを優しく世話する。
しかし、命を得たドーリィはわがまま放題。学校のみんなにけむたがられても、「せっかく命をもらったんだから、自分のしたいことだけをして楽しく生きるの。それの何がおかしいの?」と言い放つドーリィ。
あるときドーリィは、バイキンマンに誘拐される。その後アンパンマンに助けられた彼女は、彼に「なんのために生きているの?」と問う。アンパンマンは「ぼくも最初はわからなかった。でも今は、困っている人を助けるために生きているよ」と答える。ドーリィは「そんなのはカッコつけだわ」と一蹴する。
実は、ドーリィは人形だった頃、ひどい持ち主に痛めつけられ、そして海に捨てられてしまったのである。そのために、「命をもらったら、絶対に好きなことだけして生きていくんだ」と決めていた彼女は、アンパンマンの言うことが理解できなかった。
ドーリィの胸の中の「いのちのほし」はだんだんと輝きを失っていく。「自分のしたいことをして、楽しんでいるはずなのに、なぜ?」と戸惑うドーリィ。自分と同じく「いのちのほし」によって生まれ、ほしがきちんと体に溶け込んでいるというアンパンマンと、ほしがなかなか溶け込まない自分は何が違うのか、答えがわからず苦しむドーリィ。
そして「いのちのほし」に感謝をする星祭りの日に現れたバイキンマンのメカ、スーパーカビダンダンの力により、みんなはカビに閉じ込められてしまい、さらに、アンパンマンはドーリィをかばって「いのちのほし」を失ってしまう。アンパンマンを助けるには、「いのちのほし」が必要だ。そこでドーリィは、彼女の「いのちのほし」をアンパンマンのために使うことを決意する。
正しい「いのち」の使い方
初めの頃のドーリィは、「自分だけが楽しければいい」と考えています。これは、彼女が「誰かのために生きることで得られる喜び」を知らないためです。人形だった頃の彼女は、本当にひどい目に遭い続けていたのでしょう。
ですが、彼女はパン工場のみんなの優しさや、アンパンマンの暖かい心に触れることで、徐々にですが「他人のために生きること」を理解していきます。ただ、それでもその生き方を受け入れることが、なかなかできない。
そんな彼女を変えたのは、アンパンマンの行動です。
散々ワガママを言って困らせたのに、アンパンマンはドーリィをスーパーカビダンダンにやられてしまわないように、その背にかばいつづけます。「もうやめて!私なんかのために頑張るのはやめて!逃げて!」と叫ぶドーリィに、アンパンマンは振り返り、優しく微笑んで、そのまま石になってしまうのです。
「困っている人を助けるのがぼくの生きている理由だ」というのが、カッコつけでもなんでもなく、アンパンマンの本心であることが、この瞬間、行動で示された。これがドーリィを変えるのです。
「アンパンマン、あたし、やっとわかった。」
輝き出した「いのちのほし」を自らアンパンマンに差し出しながら、ドーリィはすっきりとした顔で言います。
「あたしのいのちのほしは、あたしのこころは、アンパンマンのなかで、一緒に困っている人を助けていくの。ずっと、いつまでも、ずっと!」
・・・ここのくだりは、本当に感動モノです。是非、観て欲しい名シーンです。
結局のところ、「自分だけが楽しい」という生き方は、長続きしないのでしょう。
誰かのために何かができる。それが真の喜びであり、在るべき生き方だと、この映画は言いたいんじゃないかな〜、と私は感じました。
アンパンマンほどの生き方はなかなか難易度が高いですが、心に留めておきたいところです。
立て続けにアンパンマンの映画を観てみましたが、やなせたかし作品はさすが重みが違いますね。これ、一応終盤でドーリィは無事助かる(ネタバレ防止のための申し訳程度の反転要素)んですけども、そのくだりがなかったら『チリンの鈴』レベルで子供のトラウマになるんじゃないかと思います。
今回は紹介しませんでしたが、『ゴミラの星』も「自己犠牲」がテーマのひとつになっています。巨大怪獣映画としても楽しめる、非常に良作です。
また、『勇気の花がひらくとき』は、アンパンマンにしては珍しい恋愛要素があるのと、ロールパンナちゃんの活躍がメチャクチャかっこいいので、これもまたオススメです。
noteにあらすじ(というかほぼ本筋)と雑ですが感想を投げているので、よろしければそちらをご覧ください。
よ〜し次はどのアンパンマン作品を見ようかな!!!!!
また面白い映画があったらダイレクトマーケティングしにきます。ではでは。
『宇宙戦隊キュウレンジャー』布教まとめ 〜11人いる!〜
(※ブログ内の画像は全て自分で描いてます)
(上記の画像の背景は Hubble Space Telescope Images | NASA からお借りしました)
タイトルからネタバレしていくスタイル。
どうも、最近ニチアサキッズと化している泥水です。
ニチアサとはニチアサキッズタイムの略で、日曜日の朝7時〜9時の、テレビ朝日系列の子供向け番組が放送されている時間帯のことです。
戦隊モノ、仮面ライダー、プリキュアが放送されている時間、と言ったほうがわかりやすいですかね。
父が朝アニメを見ていた影響で、私もプリキュアは初代からなんとなく流し見し続け、仮面ライダーも時々見たり見なかったり、戦隊モノも起きれたら見るか〜程度には見ていました。
ただ、今年の2月から始まった戦隊モノ、『宇宙戦隊キュウレンジャー』が想像以上に面白く、最近は必ず7時に起きて放送の始まる7時30分にはテレビの前で正座しています。
宇宙戦隊キュウレンジャーとは?
あらすじ
時は、はるかかなたの未来――― 宇宙は泣いていた。
宇宙を形成する88の星座系は、宇宙幕府ジャークマターに支配され希望は失われたかに見えた。しかし、宇宙にはある伝説が伝えられていた。
「宇宙が心なき者の手におち、人々が涙するとき、9人の究極の救世主があらわれ宇宙を救う!」
9人の戦士たちはそれぞれが星座の力をやどした”キュータマ”に選ばれたスーパースター。そんな彼らがひとつの場所に集いチームになるとき、宇宙の救世主となるオールスター軍団が誕生。
その名は宇宙戦隊キュウレンジャー!
はい、公式サイトのイントロダクションから引っ張ってきました。
要するに「宇宙が悪いやつに支配されてヤバイので伝説の戦士を集めて悪を倒すぞ」という、いたってシンプルな戦隊モノの定番ストーリーですね。
”9人の究極の救世主”という”キュウ”推しがまたテンポよくて良いです。
何が面白いのか?
ストーリー自体は、言ってしまえば、ごくありふれた王道的なものです。
しかし、この『宇宙戦隊キュウレンジャー』、とにかく面白いんです。なんかもうすごいんです。
※ここから先はネタバレを含みますので、1話からきっちり見たいぞ!という方は素通りでお願い致します。ていうかもうタイトルでばらしててすみません。
ポイント1:まず9人じゃない
正直、視聴前の宣伝で見た際は、”9レンジャー”という時点で「えっ、人数多くない!?」と思いました。私の覚えているかぎりの戦隊モノは、大抵5人、追加キャラが増えても6人、少ないときは3人・・・その程度が普通かな、と。
ところがどっこい。4月29日現在、キュウレンジャー、11人います。
9人で多いとか完全に舐めてた。11人ですよ11人。萩尾望都の作品かな?
ポイント2:キャラの個性がすごい
11人もいたらさすがに覚えられないだろ!!という気がしますが、全然問題ありません。覚えられます。なんてったって全員キャラが濃いから。
文字が多くて読みにくいですか?すみません。
かなり偏った情報ですのでちゃんと知りたい方は公式HPを見ることをお勧めします。
そして変身前がこちら。
正統派イケメン影のあるイケメンCV中井和哉の狼男CV大塚明夫の牛ロボットデザイン神のアンドロイドヒロイン明るくおちゃめなヒロインみんなのママお兄ちゃん的イケメンCV小野友樹のチャラい機械生命体と感情の薄いイケメンのコンビ極めつけにCV神谷浩史のお調子もの司令官更に弟思いのかわいい男の子!!!!!!
「これだけ盛ればもうどこかしら心に刺さるキャラいるでしょ」と言わんばかりの属性の盛り方です。オタク的には、声優のチョイスもかなり素晴らしいと感じます。
(中井和哉さんは『ONE PIECE』のゾロ、大塚明夫さんは『メタルギアソリッド』の主人公ソリッド・スネーク、小野友樹さんは『ジョジョの奇妙な冒険 第4部』の東方仗助、M・A・Oさんは『がっこうぐらし!』の若狭悠里、神谷浩史さんは『進撃の巨人』のリヴァイ などが有名でしょうか?)
そして、個性は中身だけじゃない。変身後の姿にも特徴があります。
例えば狼男のガルは、モフモフとした体毛と鋭いツメを持った手足が変身後にも残っています。ヘビツカイのナーガはヘビのウロコ模様が入っていますし、機械生命体のバランスやロボットのチャンプは変身後もロボロボしたデザインになっています。
また、戦隊モノの”目”となっている黒い部分も特徴的ですね。それぞれの星座がモチーフになっていて、しかも宇宙っぽくキラキラしている。とてもかっこいいデザインです。
この11人が「オリオン号」というキュウレンジャーの拠点である宇宙母艦でワイワイしている様は本当にかわいいです。ブルーとグリーンの喧嘩回、結束を強くするためにみんなでダンスする回、ゴールドのお誕生日を祝う回・・・ とにかく、とにかく、どのキャラクターもみんな個性があって素敵なんです。
ポイント3:それぞれの出番がきちんとある
11人もいると各キャラの出番がものすごく少ないのでは?という疑問が生じますが、『宇宙戦隊キュウレンジャー』の基本的な出撃人数は「5人」です。
毎回、くじ引きで出撃する人物を決めています。主人公のラッキーはその名の通り「宇宙一ラッキー!」なだけあって毎回出撃していますが、今のところ他のキャラはまんべんなく活躍しているイメージがあります。
また、出撃しないメンバーは船の修理をしたり、別の任務についたりと、全く出番がないわけではないので、推しの出番がゼロ!ということはあまりない親切設計。
一人でも気になるキャラがいましたか?
そうか!!!なら見るっきゃねえな!!!!!
さてさて、まだまだ語りたい点はいくつもあるのですが(主に敵側キャラなど)
あまり長く語りすぎるのもよろしくないので、ここらで一度筆を置きます。
日曜 朝7時30分、テレ朝5チャンネルで放送しています。
是非一度、ご覧になってみてください。
以上、『宇宙戦隊キュウレンジャー』の布教でした。
映画『チリンの鈴』〜狼にも羊にもなれなかった獣の行く末〜
(※ブログ内の画像は全て自分で描いてます)
「幼少期に見たら確実にトラウマになってたなあ」系のアニメってありますよね。
私のなかで思い出深いものとしては『クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険』でしんちゃんがお風呂に入る例のシーンです。あの、紫色になった風呂から人形がぷっかり浮かび上がるところがメチャクチャに怖かった覚えがあります。
不穏な前置きはおいといて、今回ご紹介したいのは『チリンの鈴』という映画です。
原作はアンパンマンで有名な やなせたかし先生 の『ちりんのすず』という絵本らしいです。
知人が「超絶落ち込む」「表紙詐欺にも程がある」と絶賛(?)していたので、いつか見たいなあと思っていたのですが、このたびU-NEXTという動画配信サイトに登録して、見られることがわかり早速視聴いたしました。
ストーリーの紹介
主な登場人物と関係はこんな感じ。
話はわりと単純明快です。
子羊のチリン(首に鈴がついているのが特徴)は牧場でお母さん羊や仲間と平和に暮らしていたが、ある日ウォーという狼に羊小屋が襲撃される。逃げそこねた幼いチリンにウォーがとびかかったとき、お母さん羊がチリンを守り、命を落としてしまう。
母の仇を取ると決意したチリンは倒すべき相手であるウォーに弟子入り志願し、はじめは無視していたウォーはやがてチリンを受け入れ、チリンは強い”オオカミ”を目指し修行をする・・・
といったところです。
母の死による仇討ちの決意、仇を討つために仇そのものに弟子入り、やがてその仇と不思議な絆で結ばれていく・・・ある意味、王道的とも言える気がします。ここだけ抜き出すと胸熱映画っぽい。
ただ、この『チリンの鈴』、Googleで調べると真っ先に「後味悪い話まとめ」「鬱映画集」とかのページが出て来るんです。
なぜか?
それはチリンがウォーとの修行後、「狼と羊のどちらにもなれない存在」となってしまうためです。
ここからはネタバレ要素が強めなので、できればご自身でご視聴してからの方が良いかと思います。
この映画が”鬱映画”と言われる理由
↑ 修行により立派に成長しすぎてしまったチリンくん(CV:神谷明)
ウォーと修行を続けたチリンは、自分を鍛えてくれたウォーを「父親のような存在」と思い始めてしまいます。立派なツノが生え、岩よりも硬い蹄を持ち、強くなったチリンですが、何度も母の仇討ちをしようとしたけれど、結局できなかった。もうウォーを殺すことはできない、これからはウォーと共にこの地帯を支配する、という選択をします。
そんなある日、ウォーは かつてチリンがいた羊小屋を襲うことを決めます。「あの牧場を襲う。できるか、お前に?」と問うウォーに、チリンは「もちろんできるさ」と厳しい目つきで答えます。言葉通り、牧場を守る犬たちを次々蹴散らすチリン。
そして羊たちの小屋へ突入します。
そこに現れたのは、一匹の逃げ遅れた子羊。そして、その子羊をかばうようにおおいかぶさる母羊。かつてのチリンと、同じ状況を見てしまうわけです。
チリンは自分の過去を思い出し、「僕にはできない!」と羊たちを襲うことをやめて逃げてしまいます。しかしそれを許さないウォー。最後にチリンのとった選択は・・・
と、ここまで書いてしまうともう察しの良い方は「ああそういうオチ・・・」となってしまうかと思いますが、とにかくこの映画、児童向けとは思えないほどに重い内容になっています。
ウォーとチリンの絆、ウォーのチリンに対する想い、狼にも羊にもなりきれないチリンの孤独・・・そして「生き物は何かを殺して生きている」ということをこれでもかと叩きつけてくるストーリー。
とにかく「幼少期に見たら確実にトラウマ」アニメです。救いのなさに唖然とする。
作画は非常に素晴らしく、幼いチリンの動きのかわいさ、狼ウォーのしなやかな動き、どれをとっても魅力的で、しかも46分という短さですので、是非ご自身でご覧になっていただければと思います。結末をどう捉えるかは貴方次第。
そして出来れば私とウォーについて語り合いましょう。ウォーーーーーー!!!!!!!!最高だよウォーーーーー!!!!!!!!!
以上、『チリンの鈴』の感想でした。
U-NEXTで31日間無料やってるんで是非見てください!
今ならアニメ攻殻機動隊第一期も見られるぞ!
いらっしゃいませこんにちは
初めましての方もそうでない方も ようこそいらっしゃいました。
「泥水(どろみず)」と申します。25歳の色んなものが好きなオタクです。
このたび諸事情により仕事を辞めまして、それをきっかけにブログをはじめてみることにしました。
諸事情についての詳細はnoteに漫画でまとめてありますので、少しでもご興味があれば是非読んでやってください。
実は何度かブログを開設したことはあるんですが、あまり長続きした試しがありません。なのでブログの名前がすでに後ろ向きな感じです。どこまで続くか、高みの見物スタイルで見守っていただければと思います。
とりあえずは、好きなものについて語る場所にしようと思っています。
あとは、私の経験したこと(辞職、闘病、家庭問題etc...)について、同じような環境にいる方の助けに少しでもなるように、ちょっとずつ書いていければいいかなと思っています。
適当に、やんわりやっていきますので、どうぞよろしくお願いします。